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御髪はいつもの茶筅髷であったし、服装は袖のない湯帷子、腰には刀や鞭などを下げ、手には真新しい鞍(くら)を掴んでいる。
濃姫にはどう見ても、馬の稽古に出掛ける前に、ついでに立ち寄っただけのようにしか見えなかった。
いずれにせよ時間通り皆の前に姿を現した信長は、堂々と広間の中央を通り、上段の茵に着座すると
「皆々──大儀である」眉心紋消除
いつもより低い声を響かせながら、家臣たちの青い頭に鋭い眼光を注いだ。
「親父殿の逝去に伴い、今日(こんにち)より儂がこの織田弾正忠家の大将と相成った」
若き主君の声に、一同は粛然として耳を傾けている。
「家督の継承に関して、各々意とするところが違(たご)うているのは元より承知しておる。
儂を亡き親父殿の後継と認め、我が意に従ってくれる者。
または優秀な弟の信勝を担ぎ上げ、いずれ当家を継承させんと目論む者……いずれも了解の上じゃ」
秀貞を始めとする一部の家臣たちの顔が引きつった。
「遠慮はいらぬ。もしもこの中に儂を討ち取りたいと考える者がおれば、今すぐ己の居館に立ち戻り、手勢を引き連れてこの城を襲撃致すが良い!
織田上総介信長。戦の数は多く積んではおらぬが、今の儂の全力をもって正々堂々受けて立とうぞ!」
家臣たちは狼狽し、思わず隣の者と目を見合わせる。
「儂とここで刀を交えるか否か──早急に返答せい!」
怒号のような信長の声が大広間いっぱいに轟くと
「「ははーっ!」」
と、一同揃ってその場にひれ伏し、恭順の意を示した。
秀貞も通具も、内心の動揺を押し隠しながら必死に額を床に擦り付けた。
濃姫も思わず、御簾の中から凛々しい夫の姿に一礼を捧げていた。
この時 信長十八歳、濃姫十七歳。
実に初々しき大名夫婦の誕生であった。
「──信長様、結局あのまま御退席なされ、広間には戻って来られませんでしたなぁ。せっかくの祝賀のお席が…」
「こぼすでない三保野。殿にとって御継承の挨拶など、馬場に赴く前の序でのようなものだったのじゃからな」
奥御殿に戻る道すがら、濃姫は憂い顔の三保野に微笑(わら)いかけた。
「にしても驚き入りました。あのようにはっきりと信勝様擁立の件を口になされるとは…。
ご重臣の皆様方もたじたじとなっておられましたな」
三保野が告げると、濃姫は深刻そうな顔をして、心持ち顎を引いた。
「あれは、ご自分を何かと軽視する者共への殿なりの戒めだったのやもしれぬ。──なれど、些か心配じゃ」
「何がでございます?」
「あのような大胆な言の葉が、信勝様に傾倒する家臣たちを、余計に焚き付けてしまうのではないかと思うてな」
「それはつまり、御謀反へ、という事でございますか?」
「ああ。……このまま何事もなければ良いが」
きっと何かが起こるだろうと予測しながらも、濃姫はそう願わずにはいられなかった。
不安から、姫が思わず顔色を曇らせていると
「大丈夫でございますよ、姫様」
淀んだ空気を吹き飛ばすかのように、三保野は快活に笑った。